2017/09
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母のこと
記憶として残しておきたいから、あえて。

11月5日の朝のことになる。
私はKっちの結婚式が行われた桜島を離れ、フェリーのデッキにいた。
バイブにしていた携帯をあけると兄や主人、子供から何度も着信が入ってる。
その瞬間にすでに何が起こったかわかっていたような気もする。
主人に電話すると母が倒れたという。
兄にも電話する。すでに心肺停止を起こし蘇生がされたそうだ。
大分の叔母の元へ寄ってから大阪へ帰る旅程だった。
そんなことで飛行機のチケット片道分だけを持ち桜島にやってきたのだ。
折りしも三連休の最終日。
同行のCさん、Yさんがそれぞれに航空会社に電話してくれる。
気持ちだけ焦り何も手につかない。結局キャンセル待ちすら出来ない状況。
結局、新幹線を乗り継ぎ大阪へと戻ることに。
お二人には本当にお世話になった。あの瞬間に居合わせてくれただけで有難い。

楽しかった桜島でのひとときの後、叔母たちと温泉にでも行こうと
言っていたにも関わらず、何故か大阪に戻りたいという焦燥感に駆られていた
気持ちの出何処が、今思えば母のことと符号する。不思議なものだ。

母は救命救急のICUにいるため私が戻ることができる時間には面会できないという。
一日がかりで家に戻った。人生で一番長い一日だった。
そして、この日から母が亡くなる11月21日まで私は何も手がつけられないまま
毎日電車に乗り奈良にある救命救急センターに通うことになる。
母はただ眠っているようで、呼びかければ目を覚ましそうで、けれど、
そんな奇跡は起こることがないと先生には聞かされていた。
遠くにいる叔母たちはすぐさま飛んできそうな勢いで、でも、もしもの事があれば
また叔母たちを呼ばねばならない。
「あなたたちと同じ気持ちでいるのよ。」と叔母に泣かれた。
東京の兄が飛んできて、大分の叔母たち、沖縄の叔母たちが次々とやってきた。

長く大阪に帰ってこなかった東京の兄は母の手を握り3日間泣き続けた。
「母さんは怒ってなかったか?」と私に聞いた。
叔母が代わりに答えた。「心配こそすれ何故怒るのよ。」
私たちは子供の頃に怒られた記憶など一切ない。穏やかな人だった。
東京の兄を見てると子供の頃のように手を繋いで歩きたくなった。
そんなに泣かなくていいよと言ってあげたかった。

父が早くに亡くなり、私たち兄弟は支えあって生きてきた。
とりわけ、長男である奈良の兄はこの不出来な弟や妹に苦労してきたはず。
何故かこの期に及んで私は兄にそれを詫びた。
兄は「お前たちがいたから俺も頑張れたんやで。」と、一笑した。

数日経って叔母たちは帰っていった。
母は少し浮腫んできたもののその他は安定してるようだった。
面白いことに私たちが少し落ち着き、仕事に行こうとすると病院から連絡がある。
どうも傍にいて欲しいみたいだ。
器官が腫れてくるとうまく酸素を送れないので喉を切開してそこに繋ぐという。
兄と私は同じ思いで、もうこれ以上母に傷をつけたくはなかった。
電気ショックも断った。もう何をしても目は覚めないのだから。
担当の先生は承諾して、もし何かあったら私が傍にいますからと言ってくれた。

母の呼吸が穏やかになった。
私は来るべき日が近いことを感じ始めていた。
そして、その日は2日後にやってきた。
朝4時に電話が鳴った。病院に駆けつける車中で兄からその訃報を聞いた。
母は看護士さんに呼吸器をつけていた絆創膏の後もわからないほどきれいに
してもらっていた。どこかで見た仏様のような穏やかな顔だった。
取り分けおばあちゃんっ子だった長女のしゃくり上げる泣き声が病室に響いた。

母を乗せた車を先生や看護士さんが見えなくなるまで見送ってくれていた。

いつもそうだが、お葬式の準備というのは煩雑さに悲しみを束の間忘れさせる。
子供たちだけで出す初めてのお葬式でもある。
遠いところからまた皆がやってくる。色んな打ち合わせにあたふたする。
それでも母が照れそうなくらい立派なお葬式だった。
私はそれをカメラに収めた。前代未聞であろうけれど母へのはなむけとして。

誰もが不眠不休で疲れがピークに達していた。
斎場へ母の骨を拾いに行く。白くなって出てきた母の骨を見て兄が叫んだ。
「骨になっちまったぜ!」
兄の言葉に全てが集約される。みんな同じ思いだ。
そして、最後の最後まで一緒にいた兄の悲痛な叫びだ。
「さあ、かえろかえろ。」
もう終わったんだ。母さんを連れてかえろかえろと兄が泣いている。

それでも初七日をするために和尚さんが待ってくれている。
どういう因縁か和尚さんは同じ大分出身で、母を家に連れて帰ったとき、
お通夜、告別式、そして初七日と、その度に涙ぐんでおられた。
自分が大分から大阪に居を移さねばならなかった経緯やらを話され
どこかこの同県人とオーバーラップされたのかもしれない。
有難い有難い和尚さんの暖かい涙でもあった。

翌々日に皆が帰ることになり、後は我ら大阪組が頑張らねばならない。
別れ際に沖縄の叔母が私の肩を抱きしめてくれた。正確には兄も抱きしめた。
小さい叔母が大きな愛情でいつもいてくれることが嬉しい。
ぐずぐずになりながら、「叔母ちゃん、いつまでも元気でおってな。」
そう言うのがせいいっぱいだった。
私には優しい頼もしい、いつも気にかけてくれる叔母や叔父がいる。
大好きな兄がいる。これは母の残してくれた私の財産でもある。
母の葬儀は取り巻く身内の暖かさの再確認の儀式のようでもある。
母には何の親孝行もできていない。孫の顔を見せたくらいだろうか。
言ってもせんのないことと、悔やむことはやめる。
それもまた母の人生。私の人生。人生とはそんなものだと言ってみたりする。

母の死によって何かが変わり始めたような気がする。
母を軸に自分という存在がもう少し頑張ってもいいような気がしてきた。

でもやっぱり切ないよな。
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