2017/06
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やっぱり丁寧に生きないとね
寒くなりましたね。さすがの私も靴下はいてます。

今日ね。お向かいさんのご葬儀でした。
一昨日の夜中の12時過ぎ(正式には昨日かな)に警察の人が来て、
うちのドアをドンドン叩いたのだとか。
私はもう寝ていたので、起きてた末娘が誰かがドアを叩いてるって
怯えながら言いにきたので、出ないほうがいいって言ったんです。

1人暮らしのお向かいさんと連絡がとれないお身内が合鍵もないので
警察に頼んだらしい。亡くなってたらしいです。
そういうとき、最後にいつ姿を見かけたか近所に聞くんですね。
数日前に見かけた気がしたけど、回覧板が玄関に置いたままなので、
お隣さんが次に回したらしい。それは先週の火曜とか水曜のことで
亡くなって一週間近くが経ってたのかもしれない。

お向かいさんは60代でお元気だったので、孤独死という言葉は適切
ではないです。
ただ近所付き合いを全くされなかったので、様子が伝わらないのです。
ただ、随分前に私から積極的に挨拶をするよう心がけていました。
こんな下町の、おばちゃん達が元気いっぱいな、五月蝿い位お節介の
そんなところで孤独死なんてありえないんですが、残念なことでした。
倒れたまま、幾つもの暗い夜を過ごして寒かったろうなと思いました。
もっと、お節介しとけば良かったな。



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今年は酢橘がよく生りました。葉っぱはアゲハの幼虫に食べられました。
シークワーサーはたった2つだけ。レモンの木は全滅。


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桜の蕾
暫く留守をしました。
コメントをいただきながら、返すことも出来ずに申し訳なかったです。

この度の未曾有の震災時、私は術後2日目の意識が混沌とする兄のベッドの
傍らで大きな揺れに驚きました。
その瞬間に先生が大地震が起きた事を院内に告げられ、担当の看護士さんが
「大丈夫ですか?」と即座に来てくださいました。
兄の循環器の主治医の先生はその一時間後には被災地に向かわれてました。
色んな不安が綯い交ぜになってここ暫くを過ごしていたようなことです。

被災地の皆さんには心よりお見舞いを申し上げます。
多くの方が犠牲になり、未だに安否が分からない方も沢山おられるとのこと。
ご冥福を祈ると共に一人でも多くの方が生還できますよう祈っております。

兄は胃の進行癌で3月9日に7時間にも及ぶ手術を受けました。
先生よりの告知の際、兄はただ空を見つめて「悔しい」と呟いていました。
胃全摘、摘出した胃は内部から外へ癌が浸潤しリンパにも癌が見つかりました。
昨年の心臓の治療に加えて、腎臓の不具合も抱え、リスクの高い手術でした。

最初の告知、次の執刀医の先生のプラス要因の何もない手術の全容の説明、
摘出した兄の胃を見て、CTで見るより実際の進行の具合のステージは上がり、
その度に私は何度も泣き暮れていました。

主人が、これから一日一日を大事にしようと言いました。
子供達からも叱咤されました。
仲良しおばちゃんにもしっかりしなさいと言われ、精神のバランスを保ちました。
術後4日目にしてようやく兄の顔が和らぎ、言葉も出るようになりました。
身体の辛さだけではなく、きっと色んなものと戦っていたのだと思います。

癌というのは行き場の無い、目的が見えず、自分が何者か分からない細胞が
なるのだとある本に書かれていたのを思い出し、「お兄ちゃん、皆お兄ちゃんを
中心に今まできたのだから、元気になってまた頑張らないといけないからね。」
そう言って兄の存在の大きさを伝えました。
一週間が経ち、兄は3日ほどは生きた心地がしなかったと述懐していました。
様々な摘出した検体の検査を気にしてましたが、また出来たらまた採ればいい
以前の職場の部長はお腹を出して沢山の手術痕を勲章にしてたと話ました。

真摯に生きてきた兄が何の因果でこの一年病気に苛まれるのかと悲嘆に暮れ、
右往左往な日々でしたが、自分の中の恐れや不安をずっとクリーニングしつつ、
ようやく落ち着きを取り戻しました。手術自体の経過はいいようです。
兄の病気と平行し主抜きで昨日から2日に渡る引越し作業も夕方の便で終える
予定です。多分みんなクタクタなことでしょう。

あと私に出来ることは風流人さんに教えていただいた「いのちを支えるスープ」
作ってあげること位かな?それくらいしか恩返しはできないものね。



3-17sakura.jpg
3、4年くらい前に買った桜の木。一度も咲いたことがありませんでした。
気がつけば蕾がついていました。

これからまたぼちぼちと更新してまいります。
先ずは近況まで。


テーマ : 生きること
ジャンル : 心と身体

心臓とコレステロールのお話
長くなりそうですが、月曜日にカテーテルをした兄の話。

6月頃に兄が胸の苦しみを訴えて入院したのですが、心臓の壁に血の塊が
付着していて血液をサラサラにする薬を飲みながら様子を見ていました。
この血液をサラサラにする薬というのは肝臓に負担をかけるので長く投薬
できないとの事でした。
幸いな事に肝臓だけは丈夫だったようで、薬によって数値は悪くなったものの、
それ以上悪化することはありませんでした。

治療が進む内にその血液の塊は半分剥離して、いつ全部剥がれて脳の血管まで
行くとも知れず予断を許さない状態になりました。
入院中定期的に検査が行われていく中、ある日突然血の塊はなくなってしまい、
それが何処へ行ってしまったのかが問題でしたが、幸いに脳には行っておらず、
普通、手や足の血管に行くと皮膚の色が変わったりしてわかるのだそうですが、
その兆候も現れず何とも不思議なことでした。
1ヶ月に渡る入院の末にやっと職場復帰。

その後の定期検査では異常が全く見られなかったものの、お盆休みの最中に
一時的に胸が苦しくなり、それを再び繰り返したので病院へ。
涼しくなったらカテーテル検査をしようと思うと言ってた矢先の出来事でした。

腕の血管からカテーテルをする事になり、造影剤が心臓の血管を写し出しました。
冠動脈には心臓の表面に走る3ミリほどの3本の血管があり血液を送る訳ですが、
その内の2本に異常が見つかりました。
1本は99%詰まった状態で、この部分にステン管のようなものを入れ血管を広げ
正常な状態に戻すことができました。
この詰まりが狭心症、ひいては心筋梗塞を引き起こすのだそうです。

その手術も予定の時間の半分ほどで済んでしまいました。
きっと今日退院してるはずです。

その後、先生とコレステロールの話になり、兄のLDLコレステロール値と
HDLコレステロール値は一見正常値なのですが、この二つのコレステロールの
相関関係が重要らしいのです。俗にいう悪玉と善玉。
ポイポイとゴミを捨てる悪玉コレステロールに対して善玉は頑張って掃除する
訳ですが、ゴミを捨てる人より掃除をする人が多ければいつもきれいで、血液は
サラサラの状態に保たれるという具合です。
LDL÷HDL=2.3が理想と言われてたかな?

「血中のコレステロールが多い方が長生きできる。ガンへのリスクが減る。」
という話が新聞に載っていましたが、ご存知ですか?と先生が聞かれた。
この間kebaさんがその記事を書いてくれたとこだったので「はい、知ってます。」
(付け焼刃だ。笑)
うろ覚えだけど、これは世界の中で議論が分かれるところだそうです。
「循環器内科医としてはやはりLDLコレステロール値は低いに越した事はないと
思います。」きっぱり言われた。

随分前に煙草もやめ、お酒も長く飲んでいないのに、経年の不摂生と加齢による
今回の入院・手術は寿命を延ばしたことでしょう。
私の友人も心身共に元気な人だったけど、ある日突然心臓が止まり、帰らぬ人に。
コレステロールだけが高いのよねといつも言っていました。
何か不具合が起きない限り自分の心臓の血管がどうなってるかなんて知る由も
ないですよね。
生野菜をうんと食べて、海草キノコも毎日の食事に取り入れてお掃除する人を
増やしましょう。
色々と勉強になった兄の入院話でした。



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話は変わって我が家にウォーターサーバーが来ました。

何年も前から欲しかったんだけど、水を濾過してミネラルを添加してる水って、、
大阪の高度浄水処理の水とそう変わらないんじゃない?というのが持論でして
我が家にあるアルカリイオン整水器もまたカルシウムを添加するポケットがあり
電気分解する水って?・・・て、まあ拙い頭で色々考えてました。
(あくまで素人の持論ですので)

モニプラさんを経てこんなサイトを見つけました。
(今回はモニターじゃなく注文しました。)
選んだのは日田の源泉水。大分県民のDNAが騒ぎます。(笑
天然水をサーバーで飲めるんですね。
汚染がほとんど見られない9,370年前の水だと判定されたそうです。

「ミネラルを吸収しながらゆっくりと浄化され、静かに9,370年間あなたを
待っていました。」


すごいキャッチコピー!コピーライターさんに座布団3枚ってとこでしょうか。

と、来たところでこの涼しさ?
私はこの猛暑に毎朝5リットルの水出し番茶を作り、自転車操業のように
冷蔵庫に入れて?出して?また作って?そろそろ切れるから生協に水を頼んで?と大忙しだったんです。この涼しさで水の需要が激減。
でも3日間で12リットルボトルの半分以上は消費しました。
カルピス作るのも水割り作るのも冷水ワンタッチ。温水だってワンタッチ。
そもそも水が美味しい。以前紹介した温泉水99のように甘みもあります。
ホルダーの色も選べます。我が家はピンクに。

水道の水で十分とは主人の弁。まあね。(笑)


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テーマ : 医療・病気・治療
ジャンル : 心と身体

初春のお慶び申し上げます
あけましておめでとうございます。
今年もどうぞ一年宜しくお願い致します。

12月31日に長く療養していた箕面の叔母が亡くなりました。
年明けからこんなことを書くのも憚られましたが、
供養になるかもしれないとも思い、記憶としてあえて。

叔母は子供も居らず、晩年はひとり病院暮らしの生活でした。
大分の叔母からも重々言付かり、明けてお見舞いに
行く予定でしたが間に合いませんでしたね。
もう私の顔も分からないので様子を見るだけなのですが。
大晦日に亡くなるというのは何の意味があるのでしょう。
もうしんどい思いをしなくていいよと亡母が呼んだのかもと
ひとりごちておりました。

叔母の思い出といえば一族の中で一番美しかったという位。
まだ小学校にも上がらない小さな頃、当時では珍しかった
冷蔵庫が木箱に入って叔母から送られて来た記憶があります。
子供のことなので、それは聳え立つ位に大きく見えました。
近所の人たちが見に来たのも覚えています。
九州の片田舎では大事件でした。(笑

そんな美しい裕福だった叔母の最後はあまりに寂しいもので
諸行無常という言葉そのものの人生でした。
でもこれで現世から開放され、ふたたび美しく元気な魂の人
に戻るに違いありません。
涅槃の向こうで母が待っていることでしょう。



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おせち作りもほとんど済んだ頃の訃報でしたが、何だか落ち着かず
先にごはんのおかずとして色々食べてしまったものもあるのですが
中途半端だけど折角なのでお重に詰め、みんなでお酒を飲み叔母を
偲びました。


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今年は栗の甘露煮と昆布巻き以外は手作りで頑張りました。
未だに子持ち昆布が冷蔵庫の中で行方不明です。(笑


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伊達巻も初挑戦です。甘さを控えて美味しく仕上がりました。


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テーマ : 作ってみた
ジャンル : グルメ

母のこと
記憶として残しておきたいから、あえて。

11月5日の朝のことになる。
私はKっちの結婚式が行われた桜島を離れ、フェリーのデッキにいた。
バイブにしていた携帯をあけると兄や主人、子供から何度も着信が入ってる。
その瞬間にすでに何が起こったかわかっていたような気もする。
主人に電話すると母が倒れたという。
兄にも電話する。すでに心肺停止を起こし蘇生がされたそうだ。
大分の叔母の元へ寄ってから大阪へ帰る旅程だった。
そんなことで飛行機のチケット片道分だけを持ち桜島にやってきたのだ。
折りしも三連休の最終日。
同行のCさん、Yさんがそれぞれに航空会社に電話してくれる。
気持ちだけ焦り何も手につかない。結局キャンセル待ちすら出来ない状況。
結局、新幹線を乗り継ぎ大阪へと戻ることに。
お二人には本当にお世話になった。あの瞬間に居合わせてくれただけで有難い。

楽しかった桜島でのひとときの後、叔母たちと温泉にでも行こうと
言っていたにも関わらず、何故か大阪に戻りたいという焦燥感に駆られていた
気持ちの出何処が、今思えば母のことと符号する。不思議なものだ。

母は救命救急のICUにいるため私が戻ることができる時間には面会できないという。
一日がかりで家に戻った。人生で一番長い一日だった。
そして、この日から母が亡くなる11月21日まで私は何も手がつけられないまま
毎日電車に乗り奈良にある救命救急センターに通うことになる。
母はただ眠っているようで、呼びかければ目を覚ましそうで、けれど、
そんな奇跡は起こることがないと先生には聞かされていた。
遠くにいる叔母たちはすぐさま飛んできそうな勢いで、でも、もしもの事があれば
また叔母たちを呼ばねばならない。
「あなたたちと同じ気持ちでいるのよ。」と叔母に泣かれた。
東京の兄が飛んできて、大分の叔母たち、沖縄の叔母たちが次々とやってきた。

長く大阪に帰ってこなかった東京の兄は母の手を握り3日間泣き続けた。
「母さんは怒ってなかったか?」と私に聞いた。
叔母が代わりに答えた。「心配こそすれ何故怒るのよ。」
私たちは子供の頃に怒られた記憶など一切ない。穏やかな人だった。
東京の兄を見てると子供の頃のように手を繋いで歩きたくなった。
そんなに泣かなくていいよと言ってあげたかった。

父が早くに亡くなり、私たち兄弟は支えあって生きてきた。
とりわけ、長男である奈良の兄はこの不出来な弟や妹に苦労してきたはず。
何故かこの期に及んで私は兄にそれを詫びた。
兄は「お前たちがいたから俺も頑張れたんやで。」と、一笑した。

数日経って叔母たちは帰っていった。
母は少し浮腫んできたもののその他は安定してるようだった。
面白いことに私たちが少し落ち着き、仕事に行こうとすると病院から連絡がある。
どうも傍にいて欲しいみたいだ。
器官が腫れてくるとうまく酸素を送れないので喉を切開してそこに繋ぐという。
兄と私は同じ思いで、もうこれ以上母に傷をつけたくはなかった。
電気ショックも断った。もう何をしても目は覚めないのだから。
担当の先生は承諾して、もし何かあったら私が傍にいますからと言ってくれた。

母の呼吸が穏やかになった。
私は来るべき日が近いことを感じ始めていた。
そして、その日は2日後にやってきた。
朝4時に電話が鳴った。病院に駆けつける車中で兄からその訃報を聞いた。
母は看護士さんに呼吸器をつけていた絆創膏の後もわからないほどきれいに
してもらっていた。どこかで見た仏様のような穏やかな顔だった。
取り分けおばあちゃんっ子だった長女のしゃくり上げる泣き声が病室に響いた。

母を乗せた車を先生や看護士さんが見えなくなるまで見送ってくれていた。

いつもそうだが、お葬式の準備というのは煩雑さに悲しみを束の間忘れさせる。
子供たちだけで出す初めてのお葬式でもある。
遠いところからまた皆がやってくる。色んな打ち合わせにあたふたする。
それでも母が照れそうなくらい立派なお葬式だった。
私はそれをカメラに収めた。前代未聞であろうけれど母へのはなむけとして。

誰もが不眠不休で疲れがピークに達していた。
斎場へ母の骨を拾いに行く。白くなって出てきた母の骨を見て兄が叫んだ。
「骨になっちまったぜ!」
兄の言葉に全てが集約される。みんな同じ思いだ。
そして、最後の最後まで一緒にいた兄の悲痛な叫びだ。
「さあ、かえろかえろ。」
もう終わったんだ。母さんを連れてかえろかえろと兄が泣いている。

それでも初七日をするために和尚さんが待ってくれている。
どういう因縁か和尚さんは同じ大分出身で、母を家に連れて帰ったとき、
お通夜、告別式、そして初七日と、その度に涙ぐんでおられた。
自分が大分から大阪に居を移さねばならなかった経緯やらを話され
どこかこの同県人とオーバーラップされたのかもしれない。
有難い有難い和尚さんの暖かい涙でもあった。

翌々日に皆が帰ることになり、後は我ら大阪組が頑張らねばならない。
別れ際に沖縄の叔母が私の肩を抱きしめてくれた。正確には兄も抱きしめた。
小さい叔母が大きな愛情でいつもいてくれることが嬉しい。
ぐずぐずになりながら、「叔母ちゃん、いつまでも元気でおってな。」
そう言うのがせいいっぱいだった。
私には優しい頼もしい、いつも気にかけてくれる叔母や叔父がいる。
大好きな兄がいる。これは母の残してくれた私の財産でもある。
母の葬儀は取り巻く身内の暖かさの再確認の儀式のようでもある。
母には何の親孝行もできていない。孫の顔を見せたくらいだろうか。
言ってもせんのないことと、悔やむことはやめる。
それもまた母の人生。私の人生。人生とはそんなものだと言ってみたりする。

母の死によって何かが変わり始めたような気がする。
母を軸に自分という存在がもう少し頑張ってもいいような気がしてきた。

でもやっぱり切ないよな。
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